イジンデン コラム 第22廻

島原・天草一揆のリーダー 天草四郎

1、イントロダクション

 天草四郎(あまくさしろう)、(?~1638年)というと、江戸時代初期に勃発した島原・天草一揆(島原の乱)において、一揆勢のリーダー(首領・総大将)となり活躍した有名な人物である。数々の奇跡を起こした伝説や原城(現在の長崎県南島原市)籠城戦での悲劇的な最期などは、ある程度知識としてご存じの方々も多いだろう。2018年には、島原・天草一揆の舞台となった原城跡が世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産として登録され、四郎に改めて注目が集まっている。

 今回のコラムでは、そうした「偉人」・天草四郎の生涯や島原の乱の展開、後世への影響などを具体的に紹介してみたい。

2、天草四郎の生涯

 そもそも天草四郎は益田四郎時貞(ますだしろうときさだ)とも言い、1623年(元和9年)に肥後国(現在の熊本県)に誕生したとされるが、詳細にはよくわかっていないところもある。父親は小西行長(豊臣政権期のキリシタン大名・天草周辺の領主)に仕えたという益田甚兵衛好次である。幼少期には手習いや学問に努力し、長崎にも遊学したという。成長する過程でキリシタンとなり、その洗礼名はジェロニモあるいはフランシスコと伝わる。招き寄せた鳩に産ませた卵を割ったらキリシタンの経文が現れた、近隣の島まで海上を歩いたなどという奇跡を何度も引き起こしたと言われ、この世のものとは思えないカリスマとして崇拝されていたようである。

 そして、1637年(寛永14年)に島原・天草の牢人や百姓(領民)たちが蜂起した島原・天草一揆では、牢人たちの策動から「天人」(全知全能の神から派遣された使者)として擁立され、一揆のリーダーとして活動することになった。戦闘の指揮などには関与しなかったと思われるが、追い込まれた一揆勢が肥前国(現在の長崎県・佐賀県)の原城に籠城すると、かれらの精神的・宗教的結束の象徴となり活躍した。四郎たちは江戸幕府や九州地方の諸大名家の軍隊を相手に長期間の籠城戦を繰り広げたものの、1638年の総攻撃で討死することとなった。

3、島原・天草一揆と天草四郎

 「偉人」・天草四郎を理解するためには、四郎がリーダーとして活動した島原・天草一揆を理解する必要がある。そのため、以下で一揆の背景や展開、内実などを確認しながら、一揆に果たした四郎の役割を把握してみよう。

 まず一揆の背景(要因)は、従来①幕府の指示に基づく厳しいキリシタン弾圧(迫害)や②飢饉の最中に領主の賦課した重税(苛政)が指摘されるが、実際には、キリスト教の弾圧と重税への抵抗が複合的に重なり、状況の変化によって籠城したキリシタンたちが殉教することになったと考えられる(そのため、一揆を経済闘争と宗教戦争の二項対立で把握することは出来ない)。

※二項対立…二つの概念が矛盾または対立の関係にあること。

 その展開だが、(もともとキリシタン大名の統治下にあり元キリシタンが多数いた)肥前有馬地方・肥後天草地方における一揆の発生が契機となって発生したもので、領主の城郭や支配拠点の攻略失敗を受けたふたつの一揆勢が合流し、廃城だった島原半島の原城を整備して籠城することで開始された。一方、周辺の諸大名家は、当時の武家を拘束していた武家諸法度の規定によって藩領を越境した出兵が不可能だったため、迅速な対応に失敗した。

 その後、幕府は周辺領主の援兵や総指揮官・板倉重昌(いたくらしげまさ)らの覇権を行ったが、原城の地理的条件や一揆勢の非常に強力な組織力・内部統制、キリシタンの神威による結束に阻まれ、包囲攻撃に成功しなかったうえ、1638年元旦の総攻撃では板倉が戦死する事態となった。新司令官・松平信綱(まつだいらのぶつな)の指揮下、強硬策から干殺し(兵糧攻め)戦術へと転換し、一揆勢が組織的作戦遂行能力を大幅に消耗したことで、総攻撃の準備が開始される。

 同年2月27日~28日のなし崩し的に発生した総攻撃によって、四郎を含む一揆勢は文字通り全滅し、領主への厳罰を含む徹底的な戦後処理が実施された。島原の領主・松倉勝家(まつくらかついえ)は改易のうえ死罪となり、天草の領主・寺沢堅高(てらさわかたたか)は天草没収のうえ自害した。

 ちなみに、一揆勢の参加者は3万7000人程度と言われ、幕府軍も15万人以上を動員したため、少なくとも20万人以上(当時の人口の1%近くの人々)のさまざまな身分の人々が集結する大都市が原城周辺に一時的に出現していた。

 内実に関しては、非常に多様だったことが判明している。一揆勢は、元々は武士だった各村の指導者たちのもとに村単位で参加する場合が多く、戦場経験の豊富な指導者たちが統率することで長期間の抵抗を可能にし、家族ぐるみで参加した経緯から女性や子どもも戦闘員として活動していた。しかし、島原半島北部の村々はほとんど参加していないし、天草のキリシタンにも参加しないものはいた。

 また、参加者は基本的に一度棄教した人々がふたたびキリシタン信仰に復帰した(立ち帰った)ものだが、そこには、キリスト教徒になることを強制された人々(非キリシタン)やキリシタン信仰の希薄な人々が存在した。籠城後に投降したり捕虜となったりする場合もあり、参加の動機もキリシタン禁制への不満や領主苛政への不満などと一様とは言えない。

 終末観念に基づく殉教覚悟の参加もあれば、生きるための参加や強制による参加もあり、実際の一揆勢は混成集団だった。だから、どのような枠組みにも「すべて例外なく単色に塗りつぶせない」(大橋幸泰氏)存在だと言える。

 こうした状況のなかで四郎は、混成集団に過ぎない一揆勢を統合する象徴(精神的象徴)としての役割を果たすことで、幕府軍への抵抗に多大な力を発揮したと言われる。しかし、そのことは一揆勢を限界まで幕府軍との戦闘に動員し、結果として多数の悲惨な犠牲者を生み出すことにもなった。したがって、天草四郎とは、「抵抗と犠牲の両面を喚起する役割」を図らずも果たしてしまった「悲劇を体現する存在」(大橋幸泰氏)だった。

4、後世への影響


 天草四郎たちの引き起こした島原・天草一揆の後世への影響は絶大だった。以下、内政や外交、キリシタン禁制政策、百姓一揆などの観点からその影響を具体的に確認しよう。

 内政では、①武家諸法度の解釈修正による出兵制限の解除や②飢饉対策の重視・強化と百姓経営安定化を志向する政策への転換、③幕府権力の九州地方への浸透が、外交では、①ポルトガル船追放と沿岸警備体制の構築・展開や②周辺諸国・来航船舶への厳重な通告、③日本の沿岸警備体制への琉球の包摂が、それぞれ発生した。特に、外交の動向は「海禁」・「日本型華夷秩序」という閉鎖性・開放性を並立した江戸時代独自の国際関係の展開と連動し、その後長期間にわたり日本の外交関係を規定することになった。

 キリシタン禁制政策に関しては、諸大名家が試行錯誤しながらそれぞれバラバラに対応していた状況から転換し、大目付・井上政重(いのうえまさしげ)らによって幕藩権力の一体となった対応が推進され、キリシタンの根絶を目指して禁制対象の拡大や法令の全国化が実施された。九州北部では、定期的に絵踏みも実施されるようになった。江戸時代を通じて民衆統制の最重要手段だった宗門改制度(しゅうもんあらため-せいど)がすべての人々を対象に徹底されるようになったのも、一揆の衝撃に起因する。その結果、幕藩体制下の日本列島には(少なくとも表面的には)ひとりもキリシタンが存在しないことになった。

 また、それは百姓一揆にも影響した。百姓一揆とは、「仁政」(慈悲深い領主による善政)の回復を要求した江戸時代の百姓たちによる集団的直接行動だが、(ある時期までは)百姓たちも領主たちもそれを「一揆」とは呼ばなかった。なぜなら「一揆」とは島原・天草一揆のことを意味し、それぞれの正当性の関係からそのような事件ではないことを両者ともに強調する必要があったからだった。そして、そのことはそれぞれの領主にとって(島原・天草一揆の原因をつくったために幕府から厳罰をうけた)松倉・寺沢を反面教師に「仁君」・「明君」足り得なければならないことを意味していた。

 このように、島原・天草一揆が江戸時代の社会に与えた影響ははかり知れないものがあったのだった。

 ちなみに、島原・天草一揆以降徹底されたキリシタン禁制政策にもかかわらず、潜伏しながら信仰活動を継続したキリシタンたち(潜伏キリシタン)も存在した。天草や長崎付近の浦上では、信仰共同体(コンフラリア)と生活共同体(村社会)がうまく機能したことにより潜伏キリシタンが信仰を継続し、それ以外の一部地域にも一定程度存在していたことが知られる。かれらはキリシタン(「切支丹」)の嫌疑によって取り調べを受ける場合もあったが、最終的には「異宗」として処理され見逃された。そこには、全国画一の形式的実行や潜伏キリシタンの形式的受容のために禁制が形式化した事情や禁制が異端的宗教活動全般を規制するものに転換した事情が関係している。

5、天草四郎が遺したもの

 天草四郎は島原・天草一揆において一揆勢のリーダーとなり、そのために幕府軍との戦闘で戦死することとなった。16歳という短命だった。四郎は牢人たちに擁立され、直接戦闘の指揮を執ることはなかったものの、混成集団だった一揆勢を糾合する精神的象徴として活躍した。しかし、そのことは幕府軍への抵抗に多大な貢献をする一方で、多数の悲惨な犠牲者を生み出しもした。抵抗と犠牲を喚起する役割を担った四郎の存在は、まさに「悲劇を体現する存在」(大橋幸泰氏)だと言うほかない。

 しかし、四郎をリーダーとして引き起こされた一揆勢の抵抗は、幕藩権力(江戸幕府・諸大名家)に非常に強い衝撃を与えた。内政・外交政策は大きく転換し、江戸時代独自の国際関係が構築されはじめた。キリシタン禁制政策もより徹底したものに変わり、宗門改制度によって建前上キリシタンは存在しないことになった。百姓一揆にも影響が及び、領主たちは「仁君」・「明君」として「仁政」を行うことを要求された。こうした事態からわかることは、島原・天草一揆がその後の政治・社会のあり方を長く規定することになったということである。

 それはあまりにも膨大な犠牲を生み出した悲劇だったが、それを土台として江戸時代の政治・社会が次第に形成されていったわけである。そして、その江戸時代をもとに近現代の日本社会が存在することを考えれば、島原・天草一揆、そしてそのリーダーとなった天草四郎の持つ意味は極めて重要なものがあるだろう。約400年前に生きた天草四郎が遺したものは、現在と決して無縁なものではないのである。このコラムを通して「偉人」・天草四郎のことを知る人がひとりでも増えることを願いたい。

参考文献

「益田時貞」『日本国語大辞典』(小学館)
荒野泰典『近世日本と東アジア』(東京大学出版会、1988年)
荒野泰典『「鎖国」を見直す』(岩波書店、2019年)
煎本増夫「益田時貞」『国史大辞典』(吉川弘文館、1992年)
大橋幸泰『検証 島原天草一揆』(吉川弘文館、2008年)
大橋幸泰『潜伏キリシタン』(講談社、2019年、初出2014年)
神田千里『島原の乱』(中央公論新社 、2005年)
神田千里『宗教で読む戦国時代』(講談社、2010年)
木土博成「琉球に及んだ海禁」(牧原成征・村和明編『日本近世史を見通す1 列島の平和と統合』吉川弘文館、2023年)
木村直樹「島原の乱と禁教政策の転換」(牧原成征・村和明編『日本近世史を見通す1 列島の平和と統合』吉川弘文館、2023年)
五野井隆史『島原の乱とキリシタン』(吉川弘文館、2014年)
中村質「島原の乱」『国史大辞典』(吉川弘文館、1992年)
深谷克己「『島原の乱』の歴史的意義」(歴史科学評議会、1967年)
宮崎賢太郎『カクレキリシタンの実像』(吉川弘文館、2014年)
村井早苗『キリシタン禁制と民衆の宗教』(山川出版社、2002年)
安高啓明『踏絵を踏んだキリシタン』(吉川弘文館、2018年)
横田冬彦『天下泰平』(講談社、2009年、初出2002年)
渡辺尚志『百姓たちの江戸時代』(筑摩書房、2009年)

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