イジンデン コラム 第29廻

「黄金時代を創った女王」エリザベス1世

1、はじめに

 テューダー朝(1485年-1603年)、最後のイングランド王となったエリザベス1世。彼女の治世はイングランドの「黄金時代」として郷愁されることも多く、日本での知名度もかなり高いだろう。だがそんな彼女の人生が波乱に満ちたものであったことを知る人は少ないかもしれない。今回はエリザベス1世の人生について、簡単にだが見ていこう。

2、エリザベスの幼少期

 エリザベスの父、国王ヘンリ8世は焦っていた。王妃であるスペイン王女キャサリンは子に恵まれず、一人の女児を除いて、後継者たる男児を産めていなかったからである。すでに王妃は40代。国王は次代の国王となる男児を得るために、新たな若き王妃を探していた。そこで王の寵愛を受けることになったのが、王妃の侍女であるアン・ブーリンであった。アンは高い教育を受けた華麗で才のある宮廷人であり、ヘンリは彼女に王としての役目からだけでなく、個人としても恋心を抱いてようである。

 しかし、キリスト教を奉じる国々では、離婚のために教会の認可が必要であった。特に国王の離婚ともなれば教会のトップたるローマ教皇に認めてもらわなければならなかった。しかし、再三の申し出にも関わらず教皇は首を縦に振らない。業を煮やした国王は、当時勃興しつつあったプロテスタントに目を向けた。プロテスタントとはカトリック教会に反対する新しいキリスト教の一派である。彼はこの動きを利用する形で、自らをトップとする新しい教会をイングランドに打ち立てようとした。これが現代まで続く、イングランド国教会である。

 首尾よくカトリックと離別して自らの離婚を成立させたヘンリは、さっそくアンを新たな王妃に迎え入れた。しかし、アンの第一子は待望されていた男児ではなく女児であった。そして、第二子になるはずであった男児は流産してしまった。王の期待を裏切ったアンは急速に王の寵愛を失い、最終的には姦通罪で死罪とされた。このとき、処刑されたアンの一人娘であるエリザベスがイングランド王となり、約半世紀に渡って国を統治することになるとは誰も思わなかっただろう。

3、女王エリザベス1世―プロテスタントとカトリック

 だが、運はエリザベスに味方した。父ヘンリ8世の死後、次代国王となったエドワード6世は病弱であり若くして亡くなった。それを継いだのはキャサリンの娘であるメアリであった。メアリはエリザベスの母アンのせいでキャサリンが追いやられた個人的な恨みか、それともカトリックを奉じるメアリにとってプロテスタントのエリザベスが邪魔であったためか、エリザベスを機会があれば抹殺しようとしていた。しかしエリザベスはこの危機も何とか切り抜け、メアリ死後の1559年に女王として即位した。

 こうして即位した彼女は、人文主義者の家庭教師から高い水準の教育を施され、イタリア語やフランス語を使いこなす才媛であった。しかし、当時のイングランドには問題が山積しており、いくらエリザベスが優秀だとしてもそれを一人で解決することは不可能なのは言うまでもない。それを補佐したのは、ウィリアム・セシルやロバート・ダッドリのような側近たちである。特にロバート・ダッドリに関しては、女王の寵臣として結婚の噂さえ流れたほどであった。

 彼女が何よりも解決しなければならなかったのは、父の代から続く宗教問題であった。イングランド国教会の改革はエドワード6世の時代に更に前進したものの、カトリックであったメアリの時代には振り出しに戻ってしまっていた。エリザベスは、改革をヘンリ8世の時代のものに再び引き戻したが、更なる改革を求めるピューリタンといまだ残るカトリックの両派の板挟みにあった。これに対し、女王は宗教に関する問題を国王大権に属する事項として臣下が宗教に関して議論することを禁じたり、高額の罰金を科したりすることで状況を統制しようとした。こうして、出版物や議会を通じたピューリタンの動きも存在したが、全体としてエリザベスは国内の宗教問題を鎮静化することに成功した。

 だが、宗教問題は国内にとどまるものではなかった。当時のヨーロッパは、カトリックとプロテスタントの二宗派間の大きな対立構造が存在したのである。カトリックの最強国家であるスペインは、新大陸からもたらされる莫大な金銀によって強力な軍隊を備えていた。一方のイングランドはいまだ辺境の一島国に過ぎない。スペインとの対決は避けなければならなかった。しかし、プロテスタントのオランダの独立戦争やイングランドの私掠船の活動をめぐって両者は対立を深めていく。

 ついに1588年、130隻もの大艦隊(スペイン無敵艦隊)がイングランドを目指してリスボンを出港。この国家存亡の危機にエリザベスはいち早く動き、将兵たちの前に立って演説を振るい、士気を鼓舞した。両軍の対決は、イングランドの提督であるドレイクの活躍もあって、イングランド側の勝利に終わる。その後、敗戦によって無敵艦隊は帰路において無理な航路をとらざるを得なくなり、帰国時にはその数を半分にまで減らしていた。こうしてエリザベスは、その治世における最大の危機を切り抜けることに成功したのであった。

4、エリザベスの死-テューダー朝の終焉

 数多くの試練を乗り越え、半世紀近くにも渡ってイングランドを治めてきたエリザベス。しかし、その晩年にも試練は訪れる。彼女の後継者問題である。エリザベスは結局誰とも結婚することなく、王位を継ぐ子供がいなかった。ともすれば、王位継承をめぐって貴族たちが争った薔薇戦争の再演ということにもなりかねない。

 しかし、この王位継承問題は平和裏に決着した。エリザベスの遠縁の親族であるスコットランド国王ジェームズ6世が、イングランド国王ジェームズ1世として即位することになったからである。こうして5代、約150年に及ぶテューダー朝の歴史は終わりを告げた。だが、ジェームズ1世の即位は同じ国王の下で長年のライバルであるイングランドとスコットランドが治められることを意味し、その後のイングランドの歴史、ひいてはブリテン諸島の歴史は新たな展開を見せていくこととなる。

4、おわりに

 今回は紹介することができなかったが、エリザベス1世の治世はイングランドの社会が大きな変化を見せた時代でもあった。イギリス東インド会社が成立し、シェイクスピアが活躍したのはまさにエリザベス1世の時代である。またロンドンをはじめとする都市の成長も見逃すことができないだろう。これらのことをより詳しく知りたい人がいれば、参考文献に挙げた本を読んでみてほしい。

参考文献

青木道彦『エリザベス女王-女王を支えた側近たち』(山川出版社、2014)
石井美樹子『エリザベス1世』(河出書房新社、2012)

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