イジンデン コラム 第26廻
「鬼の副長」土方歳三の実像
1、イントロダクション
土方歳三(ひじかた・としぞう)(1835年~1869年)と言えば、幕末維新期の著名な武装集団・剣客集団「新選組」の副長(サブリーダー)として知られ、「鬼の副長」などと呼ばれることもある。具体的には、剣術の才覚や責任者としての組織運営能力を見事に発揮し、隊長の近藤勇(こんどう・いさみ)をよく支えながら激動の時代に燦然と輝く活躍をした人物だと表現できる。その歳三は、子母澤寛『新選組始末記』やNHK大河ドラマ「新選組!」などで新選組とともに頻繁に取り上げられ、近藤や隊士の沖田総司(おきた・そうじ)らとともに現在まで非常に高い人気を誇っている。
だが、歳三や新選組に関する言説には、史実と虚構の判然としないところが存在し、問題もあるとされる。今回は、そうした「鬼の副長」の実像を史実の立場から紹介してみたい。
2、土方歳三の生涯① 生い立ちから新選組まで
土方歳三は、1835年(天保6年)に武蔵国多摩郡石田村(現在の東京都日野市)で生まれ、幼少期に両親を亡くしたため、江戸へ働きに行ったり石田散薬という家伝の薬を売り歩いたりしていた。その後、定期的に地元へ出稽古に来ていた江戸の剣術道場「試衛館(しえいかん)」に入門し、近藤周助のもとで天然理心流(てんねんりしんりゅう)を学んだ。同門には宮川勝五郎がおり、のちに近藤家の養子として天然理心流四代目となり、近藤勇と改名することになる。
同じ頃、歳三や勇の出身の多摩地域では、地域社会の自己防衛の必要が高まったことで、歳三の義兄・佐藤彦五郎ら地域の有力者たちが天然理心流を受容し、彦五郎の自宅を改造した道場では、歳三・勇・沖田総司ら試衛館の中心メンバーが門人たちに直接稽古をつけ始めた。
1863年(文久三年)になると、江戸幕府は過激化した尊王攘夷運動の盛り上がりを抑えるために有志集団「浪士隊(ろうしたい)」を結成し、清河八郎(きよかわ・はちろう)の呼びかけに応じた試衛館のメンバーたちもこれに参加した。浪士隊として京都に上洛した歳三たちは、生麦事件を契機とした八郎の江戸帰還方針に反発し、芹沢鴨(せりざわ・かも)のグループなどとともに残留を決定した。彼らは、京都守護職だった会津藩主・松平容保(まつだいら・かたもり)のもと、「壬生浪士隊」、ついには「新選組」として活動するようになるのである(※江戸に帰還した浪士隊は、八郎の暗殺後「新徴組(しんちょうぐみ)」として活動する)。このとき、局長(リーダー)には鴨や勇ら、副長には歳三らが就任したと言われる。
しかし、新選組は発足して間もないにもかかわらず、危機に直面する。当時の政治クーデタ(八月十八日の政変)の影響により、芹沢グループと試衛館メンバー(近藤グループ)の政治的立場の違いが顕著に表面化したのである。そのことは、歳三らが会津藩の黙認のもと鴨らを暗殺する結果を招いた。その一方で、新選組は全権を掌握した勇のもとで政治的に統一され、歳三・総司を加えた三人による安定した指導体制が構築されるに至った。そして、新選組の活動がここから本格的に開始されることになる。
なお、隊士・山南敬助(やまなみ・けいすけ)の自刃事件に象徴的なように、新選組は非常に厳格な隊規とそれにもとづく脱隊者・離脱者への過酷な処分が有名だが、それが意味を持ち始めるのはこの頃からである。
3、土方歳三の生涯② 新選組の栄光と没落のなかで
体制を整備した新選組は、治安・警察状況が悪化した京都の治安維持を担当し始め、次第にその担当範囲を拡大していく。その矢先の1864年(元治元年)には、新選組が長州藩や尊王攘夷派と呼ばれる人々を襲撃した有名な池田屋事件が引き起こされ、その情報収集能力・探偵能力・戦闘能力を十二分に証明し、名声を一躍高めることに成功する。もちろん、土方歳三はその最前線で活躍したひとりである。
それとともに、緊迫化する京都情勢のなかで、激派勢力の京都やその周辺への侵入・浸透を阻止するための探索・捕縛活動を畿内各地で繰り広げたことも重要である。彼らはその機動性を活かして畿内各地に出動することもあり、諸藩との対立を招くほどに超法規的行動を辞さない姿勢を見せていた。
このように、新選組は治安維持のみならず、拷問・暗殺などを取り扱う超法規的武装集団として成熟を遂げ、1867年(慶応三年)には、将軍・徳川慶喜による軍事改革(慶応の軍制改革)の一環で歳三らは幕臣となり、新選組は幕府直轄の軍事力に変貌する。勇や歳三がもともと百姓身分だったことを考えれば社会的地位の目覚ましい上昇である。
だが、大政奉還以降の政治情勢の流動化は、勇との意見の相違が目立つようになった伊東甲子太郎(いとう・かしたろう)らのグループの分隊を招き、「御陵衛士組(ごりょうえじぐみ)」(高台寺党)となったほか(※その後、伊東らは新選組に襲撃される)、その他にも数名の離脱者を出した。人員不足や軍事的準備の必要性から隊士の補充に取り組んだものの、王政復古のクーデタ、そして鳥羽・伏見の戦いのなかで多数の隊士を失い、新選組はその使命を終えた。
残った新選組のメンバーは、①新政府への徹底抗戦、②離脱・脱走、③正式な手続による離脱という途をそれぞれ選び取る。勇は甲斐国(現在の山梨県)や江戸近郊の流山(現在の千葉県流山市)で残党を組織して新政府軍への抵抗を図ったが、冴えを衰えさせ最後には板橋(現在の東京都北区)で処刑される。総司は肺患が重篤となり江戸で病没した。
そして、当の歳三は当初勇の救出を試みるも失敗し、旧幕府の軍事勢力や東北諸藩とともに下野国(現在の栃木県)や会津藩(現在の福島県)を転戦したのち、1869年(明治2年)、箱館戦争で戦死することになる。享年35歳だった。
4、歴史のなかの土方歳三
土方歳三の生涯は、新選組での目覚ましい活躍に彩られている。「鬼の副長」という代名詞はまさしく歳三を形容するにふさわしい言葉だろう。
地域社会の剣術に精通した百姓身分の若者に過ぎなかった彼が同門・同郷の近藤勇とともに浪士隊に参加し、新選組で頭角を現すなかでついに幕臣となり、戊辰戦争の渦中に戦死する。このような歳三の人生には、当時の幕末維新期の激動のなかで同じように現状への不安と不満をもち、身分の枠組を飛び越えて社会的ネットワークをつくりだした若者たちとまったく変わらないものがあった。各地で武士以上の剣術の腕前をもち、武士以上に武士らしく国事を憂慮した「草莽(そうもう)」の若者たちは、社会的地位の上昇を志向しながらさまざまな有志集団を自発的につくりあげ、政治情勢を進展させていった。彼と彼の新選組は、その先駆者として見通せない将来へと決意と自負心をもって突き進み、栄光と没落のなかでその最期を迎えるに至った人々なのである。土方歳三とは、幕末維新期のなかで著名な人物たちと同じく、激動の時代を必死に駆け抜けた見事な「偉人」だったと言うことができるだろう。
参考文献
小島政孝「土方歳三」(『日本大百科全書』)
須田努『幕末社会』(岩波書店、2022年)
芳賀登「土方歳三」(『国史大辞典』)
町田明広編『幕末維新史への招待』(山川出版社、2023年)
宮地正人『歴史のなかの新選組』(岩波書店、2017年、初出2004年)